飛び級を許さないのは悪いことか?
イエメンが大変だというニュースを聞いて、イエメンってどこにあったんだっけとネットで調べました。アラビア半島の南西の角っこです。
どんな状況かとイエメンで検索すると、いろいろ出てきました。その中で読んでみたのが、中東徒然日記というNewsweek 日本版に出ている酒井啓子という人のコラム。
国連を含めて支援団体の職員がサウジアラビアに封鎖された中で、がんばっているという話でした。なんか助けになることはできないかと思ってしまいました。
書きたかったのは、イエメンではなくて、そのコラムの右サイドに紹介されていた他の記事で、「飛び級を許さない日本の悪しき年齢主義」という舞田敏彦という人が書いた文章の感想。
この人、子どもを育てたことないのか、と思ってしまいましたが、1976年生まれだということですから、もしかして、ないかも?
飛び級がないから、まだしも今のような教育の状況で収まっているのに、飛び級を導入したらどうなるか? 教育ママ(最近はこの言葉を聞きませんが、子育てを放棄した親以外は全員教育ママになっちゃったから言わないのでしょうか?)の気持ちになってみましょう。
私も母親でしたから(今でもですが、一応、子どもたちは全員おとなになりました)、わかります。親って自分の子どもは優秀だと思うもの。優れた子どもをGiftedと言いますが、私も、うちの子どもたちはGiftedだと思いました。
このGiftedというのは、子どもは神のGiftだなどという立派な意味ではありません。要するにIQが普通以上にあるという意味です。
この記事の筆者によれば、日本には飛び級がないとのこと。あったらどうなるか? 今でも生まれた時から、あるいは生まれる前から教育する親がいますが、これがもっと明確な目標を得て加熱します。
今だと、小学校受験、中学受験、高校受験、大学受験ぐらいですんでいるのが、1年365日、飛び級をめざして子どもをの尻をたたく親が絶対大量に出現します。
そうなっていいのですか?
うちの子どもたち、飛び級もせず/できず、Gifted programmeにも選ばれず、ごく普通に小学校、ハイスクール、大学と進みました。うちふたりは大学卒業までこぎつけませんでしたが、日本ではないので、もし卒業したかったらまた再開なり、別のコースに行くなりすることが可能です。
そういう柔軟なところにいるのならば、大学に行くことが必要以上に評価されない環境にいるのならば、飛び級だってしてもいいかもしれません。しかし、この1億2千万人がほとんど同じ考え方をするこの国において、そういう柔軟性はありません。
大学を出て会社員になるより、水道工事や電気工事の職人になったほうがお金が儲かる国でないと無理なのです。
おまけに、そうやってどんどん大学、大学院まで走って行って、たとえば20歳で博士号を取ったとしましょう。別に18歳ででもいいですけど。
そのあと、何をするんです? そんなに急ぐ必要があります? 働ける年数、研究できる年数が何年か伸びたとして、そんなにどんどん世界のためになる発見や発明を量産できるはずもなく、あんなに急いだのはなんのため?
そう考えると、舞田さん、ゆっくり同年代の子どもたちと時間を過ごしながら生きたほうが楽しいと思いませんか?
それとも舞田さん、もっと早く大学を卒業して今やっている仕事をもっと前からしていたかったですか?
まさか、隣の芝生は青いから、うちも同じ品種を導入しよう!と単純に考えたんじゃないですよね。
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