詳しい?プロフィール

和歌山県の田舎で生まれる。生まれた年は1954年。たぶん朝鮮戦争の頃。

地元の小学校、円形校舎でしたが、その後取り壊され、今は普通の校舎。鉄筋の建物の寿命って実は短いの? それとも他に理由があったのか…

中学校は親の意向で汽車!に乗って、県庁所在地の学校へ。

高校は今度は大阪市へ。この学校は小規模校だったので、生徒会活動などすることができて、楽しかったです。結局、私って人間が好きなんでしょう。

勉強しなかったので、いえ、してもダメだったかも、その当時、国公立は1期校、2期校と分かれていて、2回のチャンスがあったのですが、2期校の地元の大学へ進みました。家に舞い戻ったわけです。

クラスメイトは同じように脛に傷もつ身でした。でも、とっても楽しくて、大学生活を満喫しました。楽しかったのは、私が選んだ専攻が生物で、夜も昼も人がいたからです。

4年生の時、国際化のために文部省が作ってくれた奨学金をもらって、1年間、オーストラリアのシドニーに留学しました。よかったです! 今みたいにスカイプも携帯もない時代。親の束縛・呪縛から逃れて楽しみました。

戻って卒業して、就職。教育学部でしたから、就活なし。試験を受けて待ってるだけ。大阪の高校の地学の空きに取ってもらいました。えー、地学!

覚えているのが、いったいどう教えるか、と、とまどったこと。だって、なんでも生徒も持っている教科書に書いているでしょ?

なんとか9年勤めました。6年は最初の学校で、その間、ふたりの子どもを産んで産休を2回いただきました。

定時制に移って3年間、その間、もうひとり子どもを産みました。

それからやめて、家族でオーストラリアに移住しました。

27年たったころ、5年半勤めていた仕事を辞めて、臨時教員に。予想より早く仕事が消えて、失業中のところへ、ソロモン諸島国の学校の仕事が降ってきて、首都ホニアラへ。

昔、ガダルカナル海戦のあったあたりです。といっても、知ってる人がだんだん少なく…

そこで、なんと家の中で蚊に刺されて、マラリアに。ちょうどデング熱が流行っていたころで、病院では床にヒトが寝ているとの話も。恐くなって、ブリスベンに逃げ帰りました。

マラリアと併発していた肺炎が良くなったところで、日本に遊びに行きました。オーストラリアに帰ったら、施設にお世話になっていた父がそろそろだとのこと。

また日本に戻って父は逝きましたが、それ以来、実家で食客をやっています。

1年半の間は施設にいた母を連れ帰って一緒に暮らしましたが、殺人犯にならないうちにと、母はグループホームにお願いしました。

食費ぐらいは自分で稼いでいるつもりです。

今もっているオーストラリアの永住権のビザの有効期限が切れる2018年末には、オーストラリアのわが家にいる予定。

なぜオーストラリアに戻るか? 子どもたちがいるから。近いところに山が見えないから。自分で選んだ居場所だから。

予定どおり、オーストラリアに帰ってきました! やっぱりオーストラリア好きです。

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