合計20kg減ったが体重じゃなく
新聞12.2㎏、チラシ7.8㎏の重さであります。どんどん高くなっていく新聞の山。持っていかなくちゃと思いながら、日を重ねてきましたが、もう大丈夫、持てる重さの3つに分けてひもをかけました。
ただし、持ち込む場所が開いていればの話。もしダメだったら、20㎏余分に載せてドライブか? 今日は久しぶりに息子とランデブー(死語ですね、あれは宇宙船のドッキングのあたりの言葉でしたか)。
町が回収してくれるのは、月2回。第1日曜と第3水曜。月1回とか、2回とか、こういうのを覚えるのは高齢者の仲間入りしつつある私には至難の業。先月からこういうのはカレンダーに書いておくことにしましたが、それでも難しい。その点、これから持っていこうとしているスーパーの新聞・ちらし集積所は昼間なら開いているのでありがたいです。それでも、持っていくことを忘れるのですが。
こうやって捨てても、また日に日にたまっていくのは目に見えています。これを解消する根本策は新聞をやめることです。でも、朝、新聞を広げてさわって読む、この作業を断捨離するのは寂しいです。たとえニュースがネットで読めるとしても。もうひとつの困りごとは、古新聞がなくなることです。今は母がグループホームにお世話になったので、おむつを包んで捨てるという用途は消えましたが、そのほか、割れ茶碗を包んで捨てるとか、生ごみの下に敷くとか、納豆の容器を包んで燃えないゴミに入れるとか、古新聞が必要です!
(そういえばお茶碗使ってませんでした! 耐熱のパイレックスのボウルでした! ブリスベンでは大きい皿にご飯も載せてました。うちの子どもたち、茶碗を使うということを学びませんでした。母も忘れました)
そういう諸般の事情で新聞はやめられません。母がいつだったかもう新聞をやめようかと思うと言ったとき、オーストラリアから必死で?止めたのは私です。いやそれはやめちゃいけない!と思いました。古新聞がなくなるからと止めたのではありません。毎日努力しないでも起こる脳への知識の流れが止まるのが怖かったからです。どうせそのうち止まるのではありますが。
オーストラリアでは新聞の宅配はありますが、もともと、日本の昔のようにどこの家でも取っているという雰囲気ではありません。日本は横並びの強い国ですから、それが日本の経済発展を支えてきたのでしょうが、新聞取らなきゃカッコ悪いというところがありまあせんでしたか?
そういうオーストラリアのブリスベンに住んでも、日本で朝は新聞があるものと育ってきた私は新聞を取りました。朝日にするか毎日にするか、はたまた産経かと選ぶ必要はありません。ブリスベンなら、Courier Mailに決まってます。それでなければThe Australian。中にはカッコつけて?Sydney Morning Heraldを読む人もいるでしょうが。
この、「毎日、新聞を読む」という努力しない楽しみが、私の単語の数や読む力をずいぶん増やしてくれました。もちろん、辞書を引き引き読むわけではないですから、文脈での想像です。あとで、たまたま意味を知って、えーそういう意味だったのとか、あるいは発音を知って、自分の想像とかけ離れていたりとか、それでも、記事の意味はたいがいわかるようになります。
これは自分で検索して開かないと読めないネットの記事とは違うところです。向こうから勝手に毎日届く。しないといけないことは新聞受けに行って取ってきて開くだけ。ご飯を食べながらでも読めます。汚しても大丈夫。お茶をこぼしても大丈夫。これがキーボードだったらどうです?
こうして新聞の効用を見直して思いついたこと。ここで、韓国語の新聞とか、ドイツ語の新聞とか、いや、ドイツ語のほうは子ども新聞でないと……、宅配があったら、私の語学力は伸びるのではないでしょうか? ……ああ、たとえ語学力が伸びるとしても、新聞を読むだけで1日が終わってしまいますね。この案は惜しいけど却下。
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